沖縄の食文化において、「豚」は欠かせない存在です。
ラフテー、ソーキ、中身汁、てびち――沖縄料理の代表格には、いつも豚肉の姿があります。
とくにソーキは沖縄そばの具として成立しながら、骨や脂まで使い切る発想のなかで、出汁と噛み合う形に落ち着いてきました(沖縄そばとソーキそばの違い)。
よく知られた言葉に、
「豚は鳴き声以外すべて食べる」という表現があります。
これは単なる誇張やキャッチコピーではありません。
沖縄では豚が、特別な意味を持つ存在として、
長い時間をかけて食文化の中心に据えられてきました。
では、なぜ沖縄では、
ここまで豚が重視されてきたのでしょうか。
それは、
「豚が美味しかったから」だけでは説明しきれません。
中国との交易。
琉球王国の外交。
王府の政策。
そして、戦争と復興。
そうした歴史の積み重ねの中で、
豚は沖縄の暮らしと切り離せない存在へと形づくられていきました。
この記事では、
豚が沖縄に持ち込まれたとされる時代から、
王国時代の養豚、庶民の暮らし、
戦後の壊滅と再生、そして現代に至るまでをたどります。
「なぜ沖縄では豚が特別なのか」。
その理由を、
食文化と歴史の両面から整理していきます。
沖縄に豚が渡来したのはいつか(歴史)
貝塚時代の沖縄に「豚」はいなかった
沖縄料理に親しんでいると、
豚は最初から身近にあった存在のように感じられます。
しかし、考古学的な資料を見る限り、
先史時代の沖縄に豚はいませんでした。
琉球列島の貝塚時代は、
紀元前7000年ごろまで遡ります。
当時の貝塚から見つかるのは、
魚介類の殻や骨、ウミガメ、ジュゴン。
まれに、イルカやクジラの痕跡も確認されています。
獣肉として見つかっているのは、イノシシの骨です。
とくに沖縄本島中部、嘉手納町の野国貝塚では、
同時代の地層から大量のイノシシ骨が出土しています。
この頃の沖縄には、
家畜としての豚は、まだ存在していなかった
と考えられます。
豚は外から持ち込まれた動物だった
豚は、
イノシシが家畜化された動物です。
ただし、その家畜化は、
自然に起こるものではありません。
人が管理し、
餌を与え、
繁殖をコントロールする。
そうした前提があって、
はじめて豚は暮らしの中に定着します。
沖縄の歴史に豚が登場するのは、
14世紀ごろ、中国から渡来した人々が
久米村に移住して以降とされています。
中国との交易が始まり、
人の往来が増えていく中で、
豚の飼育文化が伝えられた可能性が高いと推論されています。
当時の資料には、
豚のほかにも、
牛、馬、山羊、鶏といった家畜の存在が記されています。
その中で、
豚だけが特に広く飼われるようになっていきました。
「沖縄=豚文化」は、あとから形成されたもの
この段階では、
豚はまだ特別な存在ではありません。
数ある家畜の一つとして、
沖縄の暮らしに入り込んだにすぎなかった
と考えられます。
それでも、
時代が進むにつれ、
豚は次第に食文化の中心へと近づいていきます。
行事の際には豚肉が使われ、
日常の粗食では豚脂が栄養源となる。
こうした使い分けが、
庶民の暮らしの中で育まれていきました。
「沖縄=豚文化」というイメージは、
最初からあったものではありません。
歴史の流れの中で、
選ばれ、残り、意味を持つようになった文化です。
沖縄に豚は、
最初(古来)からいたわけではありません。
外から持ち込まれ、
暮らしの中で少しずつ重要な存在になっていきました。
沖縄で豚が主役になった歴史的背景
中国との交易と冊封使(さくほうし)へのもてなし
中世以降、沖縄は中国との交易を通じて、
人や物だけでなく、文化や価値観も受け取っていきます。
その中で、
特に大きな意味を持ったのが、
中国からの使者である冊封使を迎えるための饗応(きょうおう=接待)でした。
冊封使の来訪は、
外交儀礼の中でも重要な出来事です。
もてなしの内容は、
王国の体面そのものと結びついていました。
資料によれば、
この饗応の料理には、
中国人に好まれていた豚肉が
多く用いられるようになったとされています。
豚肉は、
中国の食文化の中で日常的に食べられてきた食材です。
その嗜好を踏まえ、
もてなし料理、いわゆる御冠船料理の中でも、
豚肉を使った料理が重視されていったと考えられます。
その結果、
冊封使を迎えるたびに、
一定量の豚肉を安定して用意する必要が生まれました。
この継続的な需要が、
豚を一時的なご馳走ではなく、
常に確保すべき食材へと押し上げていきます。
ここから、
豚は単なる家畜ではなく、
外交と儀礼を支える食材としての意味を
帯び始めます。
牛馬は「食べてはいけない家畜」だった
豚文化がここまで育った背景には、
もう一つ、重要な理由があります。
当時の沖縄には、
豚以外にも家畜が存在していました。
牛、馬、山羊、鶏。
とくに牛肉は、
かつては好んで食べられていた時代があったとも言われます。
しかし、
これらの家畜は、
同じ立場ではありませんでした。
牛や馬は、
農耕や運搬といった労働力として重視されていました。
さらに、
薩摩や中国への貢物としての役割も担っていました。
そのため、
牛や馬を食用とすることは、
王府によって禁じられていたとされています。
労働力であり、
外交上の資源でもある。
そうした家畜を食べてしまうことは、
王国全体の基盤を損なう行為だった
とも考えられます。
結果として、
牛や馬は
「食べてはいけない家畜」になりました。
王府による養豚の後押し
一方で、
豚は明確に
「食用の家畜」として位置づけられていきます。
労働には使わない。
貢物の中心でもない。
その代わり、肉として使える。
この性格が、
王府の需要と噛み合いました。
冊封使の饗応では、
安定して大量の肉が必要になります。
豚は、その条件を満たす
数少ない家畜でした。
王府が買い取ってくれる。
確実な需要がある。
そうした状況の中で、
養豚を行う人が増えていった
と考えられます。
ここで豚は、
単なる家畜ではなく、
経済的な意味を持つ存在へと
変わっていきます。
「豚文化」は、自然ではなく選ばれた結果だった
沖縄が豚文化になった理由を、
「昔から豚が好きだったから」
と説明するのは簡単です。
しかし、
資料を積み重ねていくと、
それだけでは足りないことが見えてきます。
牛や馬は、食べられなかった。
豚は、食べることが許されていた。
さらに、
王府と外交儀礼が、
豚肉を大量に必要とする構造を
生み出していきました。
その結果として、
豚が選ばれ、
養豚が広がり、
食文化として深く根付いていった。
沖縄の豚文化は、
偶然でも、自然発生でもありません。
政治と経済、
そして暮らしの現実の中で、
豚が選ばれ続けた結果だった
と感じられます。
沖縄で豚が主役になったのは、
嗜好ではなく、外交と制度の要請によるものでした。
食べられない家畜がある中で、
豚は選ばれ、育てられ、文化になっていきます。
芋と豚が支えた沖縄の暮らし
サツマイモの普及が、暮らしの前提を変えた
沖縄の豚文化が定着していく背景には、
王府の政策だけでは説明しきれない、
庶民の暮らしに根ざした条件がありました。
その中心にあったのが、
1600年ごろに中国から伝来したサツマイモの普及です。
サツマイモは、
沖縄の土地と気候に適した作物でした。
- 痩せた土地でも育つ
- 収量が安定している
- 主食として腹持ちがよい
こうした特性から、
サツマイモは
庶民の日常の食を支える存在になっていきます。
芋と豚が結びついた、暮らしの流れ
沖縄の暮らしの中では、
人と豚の食は、
はっきりと役割分担され、
さらに循環していました。
普段の食事では、
人は主にサツマイモを食べます。
その過程で出る、
葉や皮といった部分は、
豚の飼料として使われました。
そして、
行事のときには豚を潰し、
肉として食べる。
余った豚脂や加工品は、
長持ちするよう工夫され、
ちゃんぷるーなど
日常の料理に回されていきます。
つまり、
- 普段食としては芋を食べる
- 余った葉や皮で豚を飼う
- 行事で豚を食べ、豚脂は普段食へ回す
という流れが、
暮らしの中に自然に組み込まれていました。
人の食と家畜が競合しない構造
この仕組みの大きな特徴は、
人の食と家畜の飼育が
競合しない点にあります。
人と豚が、
同じ食料を奪い合うことはありません。
養豚は、
暮らしの負担になりにくく、
続けやすい営みでした。
豚は、
- 日常的に食べる肉ではない
- しかし、確実に栄養をもたらす存在
という位置づけになります。
行事食としての豚肉と、
普段の料理を支える豚脂。
この距離感もまた、
循環型の暮らしの中で育まれた感覚
だったと考えられます。
沖縄の豚文化は、
サツマイモを主食とする暮らしの中で、
自然に支えられてきました。
人は芋を食べ、
その副産物で豚を飼い、
行事で豚を食べ、脂は日常へ回す。
人の食と家畜が競合しないこの循環が、
豚を無理なく暮らしに定着させていきます。
行事食としての豚、日常食としての豚脂
旧正月・旧盆に豚を潰すということ
沖縄の豚文化を考えるうえで、
行事との結びつきは欠かせません。
ここでいう「ハレ」とは、
旧正月や旧盆など、
年の中でも特別とされる日を指します。
“ハレの肉”という感覚は、豚だけで完結せず、沖縄では山羊にも重なってきました(なぜ沖縄ではヤギを食べるのか)。
一方の「ケ」は、
それ以外の、
普段の暮らしの日常です。
資料によれば、
庶民が豚を潰す機会は限られていました。
主に、
このハレの日にあたる行事のタイミングです。
豚は、
いつでも食べられる存在ではありません。
だからこそ、
潰す日は特別でした。
一頭の豚を余すことなく使い、
親族や近隣と分け合う。
その場は、
単なる食事の時間ではなく、
人と人との関係を確かめる場でもあった
と考えられます。
庶民にとって豚肉は、
日常の食材ではなく、
最大級のご馳走でした。
ハレの日に食べられた、豚の料理
ハレの日の食卓には、
特別な意味を持つ料理が並びます。
沖縄の豚料理も、
この文脈の中で発展してきました。
- てびち
- 中身汁
- イナムドゥチ
現在も残る豚料理の代表格いずれも、
豚を一頭使う文化の中から
生まれた料理です。
時間をかけて下処理を行い、
内臓や皮といった部位も活かす。
こういったことは王府料理、庶民食どちらにも共有することです。
豪華さだけでなく、
滋養を重視した調理法が
選ばれてきました。
ケの日を支えた「豚脂」という存在
一方、
ケの日、つまり普段の暮らしでは、
豚肉を頻繁に食べることはできませんでした。
資料では、
日常の食事において
重要だったのは
豚脂であったことが示されています。
豚肉は行事に回し、
脂は普段の料理に使う。
野菜炒めや汁物に少量加えることで、
限られた食材でも、
効率よく栄養を補うことができました。
豚脂は、
目立つ存在ではありません。
しかし、
ケの日の食を静かに支える
役割を担っていました。
ハレとケを行き来する豚
沖縄の豚文化は、
ハレとケを明確に分けたうえで
成り立っています。
- ハレの日には、豚を潰して分け合う
- ケの日には、豚脂で日常を支える
この使い分けが、
豚を特別な存在として
保ち続けました。
豚は、
いつも食べる肉ではありません。
しかし、
暮らしから切り離されることもありません。
ハレとケ、
その両方を行き来する存在だったからこそ、
豚は沖縄の食文化の中心に
居続けたのだと思います。
沖縄で豚は、
いつでも食べられる肉ではありませんでした。
ハレの日には一頭を潰して分け合い、
ケの日には豚脂が静かに日常を支える。
この行き来の中で、
豚は特別でありながら、
暮らしの中心に居続けてきました。
戦争がもたらした、豚文化の壊滅
沖縄の豚文化は、
長い時間をかけて形づくられてきました。
王府の制度、
芋との循環、
行事と日常の使い分け。
そうした積み重ねが、
戦争によって一気に断ち切られます。
それは、
文化がゆっくり変わるという話ではありません。
ほとんど消えかけた、という表現のほうが近い状況でした。
数字が示す「壊滅」
資料によれば、
戦前、沖縄にはおよそ10万頭の豚がいたとされています。
それが、
戦争を経て、
850頭ほどまで減少したと記録されています。
桁が一つ違う、
というより、
文化の基盤が失われたと言ってよい数字です。
豚は、
単なる家畜ではありません。
行事食であり、
日常の栄養であり、
暮らしの循環の要でした。
その豚がほとんどいなくなったという事実は、
食文化だけでなく、
生活そのものが破壊されたことを意味していたと感じられます。
離島と奄美に残された豚
それでも、
完全に失われたわけではありませんでした。
戦禍を比較的免れた離島や、
奄美地域には、
わずかながら豚が残っていたとされています。
戦後、
それらの豚が本島へ移送され、
養豚再開の足がかりとなりました。
数は少なく、
環境も整っていない。
それでも、
「豚を再び飼う」という行為そのものが、
暮らしを取り戻す一歩だったように思えます。
アメリカ主導の西洋豚導入
戦後の沖縄では、
アメリカ政府の主導によって、
西洋種の豚が導入されました。
数としては、
およそ150頭ほどとされています。
しかし、
この試みだけで
養豚が回復したわけではありません。
それでも、
外からの支援を受けながら、
豚を「もう一度増やそうとした」
その事実自体が、重要だったのだと思います。
海を越えて戻ってきた豚
転機になったとされるのが、
ハワイに暮らす沖縄出身者から贈られた
533頭の豚です。
移民として沖縄を離れた人びとが、
戦後の故郷に豚を送る。
それは、
単なる家畜の提供ではありません。
食文化を、
暮らしを、
もう一度立ち上げるための支援だったと感じられます。
この出来事をきっかけに、
養豚はようやく回復の兆しを見せ始めます。
ただし、
豚肉が庶民の日常食として戻るには、
さらに時間が必要でした。
資料では、
1960年代の高度成長期以降になって、
ようやく日常的に豚肉が食べられるようになった
とも記されています。
文化は、一度失われかけた
この章で見えてくるのは、
沖縄の豚文化が
「自然に続いてきたもの」ではない、という事実です。
一度、
ほとんど断絶しかけた。
それでも、
残されたものを集め、
外からの助けを受け、
人の手でつなぎ直してきた。
沖縄の豚文化は、
戦争を境に、
生き残った文化でもあります。
その重みを知ると、
今、当たり前のように食べている豚料理の見え方も、
少し変わってくるように思えます。
戦争は、
沖縄の豚文化をほぼ壊滅させました。
それでも、
離島や奄美に残った豚、
外から寄せられた支援によって、
養豚は少しずつつなぎ直されていきます。
なぜ今も沖縄で豚肉が食べ続けられているのか
戦後しばらくの間、
豚肉はまだ特別な存在でした。
資料によれば、
庶民が日常的に豚肉を食べられるようになったのは、
高度成長期以降とされています。
流通が整い、
所得が安定し、
食材の選択肢が広がっていく。
その中で、
豚肉はようやく
「行事の肉」から「普段の肉」へと位置を変えていきます。
ここで重要なのは、
新しく好まれるようになった、というより、
もともと身近だった食材が、日常に戻ってきた
という感覚に近い点です。
出汁文化と、豚の相性
沖縄で豚肉が定着し続けている理由として、
出汁文化との相性は欠かせません。
沖縄の料理において、
出汁は味付け以上の役割を持っています。
身体を整えるもの、
食事の土台になるものとして使われてきました。
豚は、
その出汁と非常に相性が良い食材です。
骨、皮、脂。
どの部位も、
時間をかけることで滋味に変わります。
強い主張をしない。
しかし、確実に旨みを支える。
この性質が、
鰹出汁を中心とした沖縄の出汁文化と
自然に噛み合ってきました。
この噛み合わせは、沖縄の出汁文化が形づくられてきた前提とも重なります。
そば・汁物・惣菜に溶け込む豚
現在の沖縄の食卓を見ると、
豚肉は「主役」としてだけでなく、
料理の一部として溶け込んでいることがわかります。
沖縄そばの一杯にも、その溶け込み方が静かに残っています(沖縄そばとは何か)。
沖縄そばの具としての三枚肉やソーキ。
汁物に入る豚骨や内臓。
惣菜として並ぶ煮付けや炒め物。
主役になる場面もあれば、
出汁を支え、
料理全体をまとめる役割を担う場面もある。
この使われ方は、
「肉を食べる文化」というより、
料理の構造の中に組み込まれた食材
と言ったほうが近いように感じます。
「特別すぎない」ことが、続いている理由
沖縄で豚肉が食べ続けられている理由は、
決して一つではありません。
歴史的に選ばれてきたこと。
暮らしの循環に合っていたこと。
出汁文化と相性が良かったこと。
そして何より、
豚肉が特別すぎない存在であり続けたこと。
祝いの席にも並び、
普段の食卓にも静かにある。
その距離感が、
豚を消費し尽くす対象ではなく、
暮らしに根づいた食材として残してきたのだと思います。
沖縄で豚肉が食べ続けられているのは、
新しさゆえではありません。
これまでの食文化と無理なくつながり、
今の暮らしの中にも
自然に居場所を見つけているからです。
沖縄で豚肉が日常に戻ってきたのは、
新しく好まれるようになったからではありません。
出汁文化と自然に噛み合い、
料理の主役にも土台にもなれる存在だったからこそ、
豚は今も食卓に溶け込んでいます。
特別すぎない距離感が、
豚肉を無理なく、長く支えてきました。
沖縄の豚肉文化が抱える課題
沖縄では今も、
豚肉は特別な存在として食べ続けられています。
しかし、その一方で、
文化としての強さと、産業としての弱さが
同時に進んでいることも否定できません。
県外産・輸入豚が主流になりつつある現実
現在、
沖縄で消費されている豚肉の多くは、
県外産、あるいは輸入豚です。
価格が安定している。
量が確保しやすい。
流通に乗せやすい。
日常の食を支えるうえでは、
合理的な選択でもあります。
ただ、その結果として、
「沖縄で食べられている豚肉」と
「沖縄で育てられている豚」の距離は
少しずつ広がっています。
減少する県内養豚農家
資料を見ても、
県内の養豚農家は減少傾向にあります。
後継者不足。
飼料価格の高騰。
設備投資の負担。
どれも、
一つひとつは個別の問題です。
しかし重なり合うことで、
養豚を続けるハードルは
確実に上がっています。
「文化はあるが、産業は弱っている」
沖縄では、
豚料理が今も日常にあります。
てびちも、
中身汁も、
沖縄そばの具としての三枚肉やソーキも、
食卓から消えてはいません。
それでも、
それを支える産業は、
決して盤石とは言えない。
文化としては強く残っているのに、
それを担う産業は細くなっている。
このねじれが、
いまの沖縄の豚文化が抱える
もっとも大きな課題なのかもしれません。
沖縄では、
豚肉文化そのものは、今も強く残っています。
一方で、
県外産・輸入豚への依存や、
養豚農家の減少によって、
それを支える産業は細くなりつつあります。
文化は続いているが、
産業は揺らいでいる。
このねじれこそが、現在の大きな課題です。
沖縄が「豚文化」と呼ばれる理由は、
好みや嗜好だけでは説明できません。
中国との交易、
王府の政策、
サツマイモとの循環、
戦争による断絶と再生。
そして、
出汁文化と結びつくことで、
豚は料理の構造そのものに
組み込まれていきました。
それらは、
偶然に積み重なった出来事ではなく、
その時代、その環境で
無理のない選択が続いた結果だったように思えます。
沖縄の豚文化は、
過去の産物であると同時に、
これからどうつないでいくかが
問われている文化でもあります。